経済学で考える〜東京都の漫画規制

焼き直し*1

マイケル何デルのおかげで政治哲学の地位がずいぶん上がりました。かたや、何デルは、規範や正義について考えるとき、経済学が役立たずであるという印象を植えてしまったきらいがあります。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

とんでもない誤解。きわめて心外です。そこで、さいきんの厚生経済学を用いて経済学の名誉を回復しようということが、本稿の意図するところです。

東京都の漫画規制について。*2


さて、件の東京都の規制は、セン=鈴村の解法を基準とすると、結論は望ましくない、といえます。
まず前提。 セン=鈴村の解法は、個々人に私的領域での決定権(選択の自由)がある自由な民主主義社会を想定します。しかもその社会は、できるかぎり個人の幸せを願う社会です。
いまこの想定は、いまの日本とそれなりに無理なく重ねることができるとしましょう。 さて前提を呑んでもらったうえで、議論の格子はこうです。 個人の選好と社会の選好は異なりうると考えます。なぜか。

「パレート原理は、社会を構成する人々の間で全員一致した選好が支配する場合にのみ社会的選択にたいする制約条件として役割を果たす」

からです。したがって、(他人の権利を侵害しない場合において)他人が他人の選好にとやかく言う権利はないというに制度設計であってはじめて、自由で民主的で皆の厚生を可能な限りおもんばかる社会といえるのだ、と*3

わかりにくいので当該解法の主旨の例:

「あるひとのネクタイを私は俗悪な趣味の極まりだと思うが、彼がそのネクタイを締めることを禁止する社会的キャンペーンで弾劾発言をする行為は、リベラルな個人を自認する私には、到底容認できることではない」。

誤解をおそれずにいうと、セン=鈴村の解法は、論理記号を用いた数学的な知的遊戯です。しかし、論理学から無理なく上述の含意を引き出して正当化できるところに意味があるかもしれません。 制度の規範的是非を問うとき、直感に訴えるサンデルの美学的正義も大切ですが、このように、制度が主張と矛盾していないか客観的に検討できる厚生経済学も有用といえるでしょう。

そんなわけで、これからは厚生経済学の話もしよう*4

ネタ本:

厚生経済学の基礎―合理的選択と社会的評価 (一橋大学経済研究叢書別冊)

厚生経済学の基礎―合理的選択と社会的評価 (一橋大学経済研究叢書別冊)

*1:珍しく携帯での更新なので、委細には目をつむってもらいたいところ。あと、鈴村先生の日本語(「」で引用)が難解すぎるので、平易な言葉に直してる。彼の議論の厳密性が失われているとしたら私のせいです。

*2:なお私自身は、漫画規制あってもなくてもどっちでもいいとおもってます。

*3:本日のネタ本や厚生経済学,社会選択論に精通されている方ならよくご存じのとおり,前提とする社会を変えれば当然帰結も変わってきます。つまり,今回検討する規制は,社会の望ましい形をどのように仮定するかで正当化も否定もできうるということです。これでは「役立たず」という印象を与えてしまうことも仕方がないのかもしれません。ただ,哲学で在り方を探し,厚生経済学で望ましさを検証する,という方法論がもっと浸透してもいいのになー,という気持ちを抱いたので,敢えてこういう書き方をしています。

*4:参考までにマニア向け。学術的な貢献は、この解法が、かの有名なアローの不可能性定理もセンの不可能性定理も、ギバートのリベラルパラドックスも回避していること。興味ある諸氏は調べてみてください。