publicchoiceとかその辺の話題.
戯言の時間でございます.
以前私は,ブキャナン[1988]の憲法改正による均衡財政が不適切であろう,と書いた.公共選択理論では,往々にして憲法改正について言及される*1.その根拠となっている考え方は,社会契約としての憲法,である*2.
「憲法」は,「ルール」でなく,「国体」を示すものだからだ,という旨のことを書いて,私が不適切であると結論付ける理由とした.
これだけみられると,典型的な保守的考えだとおもわれるかもしれない.
しかし私は,憲法を時代遅れな産物のまま存在させていいと言っていない.
改正したりせずとも,解釈で時代にフィットさせている現状を維持すればいいと言いたいだけである.たとえばわが憲法9条についていえば,改正されず,解釈を拡大することで,自衛隊等を正当化する.まともな論理でよくああいう解釈を引き出せるなあと逆に感心してしまいたくなるようなものとなっているものの,「解釈」でできるうちは解釈でやればいいじゃないか,というのが私見である.
ただ,このような考えは危険を孕むものだ,という自覚もある.Dixit[2000]の指摘が(私がおもう危うさの一部について)よく要約されているとおもうので,引用しよう.
彼ら(憲法やルールの草案者)はロールズのいう無知のベールの裏側にいるわけではない.たとえば,アメリカ合衆国憲法の草案者は,時代は変化し,失敗を犯しがちな人類に対応できる柔軟な政治制度を作らなければならないことを認識していたようである.それゆえに2世紀もの間機能し続け,行き過ぎを抑えて*3均衡をとることができる(チェック・アンド・バランスの効く)精巧な制度を作り上げたのである.しかし,彼らは自らの利益に関しても同様に認識していた.(Dixit[2000,邦訳pp.49])
改正されなければ当時の政治制度や利害関係を引きずったままだ,というご主張.
NHKの「その時,歴史は動いた」などで言われるような憲法九条条文作成をみるかぎり,あながち間違った指摘でないきがする.
だからといって,現時点で憲法改正を行うにせよ,国民投票こそ行われるけれど,条文の作成が我々の手にゆだねられているわけでもないし,無知のベールの裏側にいる人間なんて存在しえないし*4,さらにいえば,いまの政治制度を反映させざるをえないから,近視眼的な我々が「柔軟な制度」を考案ないし承諾するか,という問題もあるといえる.
惰性は憲法の改革全体さえも妨げる.これは主に憲法が経済政策と社会政策のいくつかの側面をカバーしており,しかも関係団体ごとに変更が望ましいと考える側面が異なっているからである.そのため,各々の団体は,これが災いの元となって望ましくない変更を恐れて,先に立って変更を勧めることを躊躇するのである.(Dixit[2000,邦訳pp.54])
おっしゃるとおりであるとおもう.しかし,だからこそ,解釈でやればいいと私はおもうのだ.
しかし,解釈でやる場合,もっとも問題となるべきことは,Dixit大先生はご指摘なさらなかったが,「国民に問う」という機会が失われ,以って国民軽視ととられかねない,ということである.
逆に言えば,これさえクリアしてしまえば,ほかは乗り越えられるとおもっている.
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